ダンス句について考える



ダンスを詠んだ俳人

 俳人では高野素十 山口誓子 西東三鬼 三橋鷹女がいます。
 誓子は踊れたかどうか不明ですが 昭和6年にダンスを詠んでいます。 三鬼 鷹女は溜池「フロリダ」で自ら踊りもしダンスを詠んでいます。

 異質文化のダンスは不良の遊びと目された時代でしたから、素十以外の3人のダンス句は、反逆個性の発露だったといえましょう。大御所の虚子は何故か素十を好み誓子を異端児扱いしたようです。当時の日本人の倫理観や羞恥心から考えれば当然だったかもしれません。以下HPの座談会から当時の雰囲気を窺い知ることができます。
cf.座談会「横浜はダンスのメッカ」

ダンスホール宝塚会館 山口誓子 10句

 
 
     ・毛皮手に婦人の耳は髪に見えず
     ・踊子や除夜の淑女を眼に愉しむ
     ・踊りつつ異国の旗の下の除夜
     ・除夜たのし我踊手は歯をかくさず
     ・除夜たのしワルツに青きひかりさす
     ・踊子も冷たきものを飲める除夜
     ・踊子の顔つくろへる年ゆけり
     ・乙女等の奏づるジャズに除夜咲まし
     ・ジャズバンドはしゃぎて除夜も深まれる
     ・歓楽のジャズに年去り年来る   
( 句集「凍港」より)

 赤坂「フロリダ」が関東「気取り文化」とすれば、「宝塚会館」は関西「貪り文化」の拠点だったのです。モボモガが跋扈する時代、ダンスは当時インテリの現実逃避 これを諌める大宅荘一「中央公論」にエッセイが今も残っているそうです。

 そうした時代背景下、素十の「づかづか句」が昭和11年ですから、昭和6年の関西人誓子の句こそ実に本邦初
ダンス句だったのではないでしょうか秋櫻子も誓子も客観写生や花鳥諷詠から乖離決別、やがて「馬酔木」で行動を共にしたのです。
 こんな短歌が当時流行ったそうです。


       ・外つ国の踊りの型を習うとも心の中は大和魂
                cf.永井良和著「社交ダンスと日本人」

  「フロリダ報告書」 西東三鬼 10句                

        ・ホールの灯晩春初夏の天に洩れ
       ・舞踏場へ山王ホテル見つつ曲がる     
        ・機関銃いまなき闇に蛾のあまた  
        ・運転手地に群れタンゴ高階に   
        ・舞踏場のドアに外人ひるがえる  
        ・三階へ青きワルツをさかのぼる   
         ・ジャズの階下帽子置場の少女なり
 
                    (S11年「旗」より)    

          ・中年や遠くみのれる夜の桃   
        ・踊子は掌(テ)の冷たきを詫びて言ふ
        ・耳噛んで踊るや暑き死の太鼓


 三鬼は後段 エロチックな夜桃句で「ホトトギス」派花鳥諷詠の奇麗事に猛反発、2句目主季語「冷たき」 3句目「暑き」 死の1年前昭和36年の句です。両句から明らかに三鬼が踊れたこと 死を暗示する太鼓(ボンゴ音)からラテンも踊れたことが判ります。

 新興俳句の旗手三鬼は昭和15年京大俳句事件で留置所入り。官憲に売り渡したのは友人 後の俳句評論で名を成す山本健吉であるとの噂があるのは皮肉です。ダンスの腕前は一級で教師の実績もあり小遣銭を稼げたと言われています。

     

老いながら椿となって踊りけり  三橋鷹女


 
  ・夜はタンゴ氷のように火のように
    ・母子踊る粉雪の如く静寂に
     ・脚組んで極月の灯の高階に
      ・老いながら椿となって踊りけり
       ・暖炉焚く夫よタンゴを踊ろうか

                  (S27年「白骨」より)

 誓子のD句が本邦初ならば、初女流D句は鷹女だったと思います。
 昭和初期女流4T 多佳子 鷹女 立子 汀女の中で鷹女のみ踊れたからです。特にタンゴと椿を愛した鷹女の句に誓子 三鬼と異なる俳趣を感じます。
 
 タンゴに
chase(追う意)と言うステップがあります。美しい人妻鷹女は老いに追いの音を重ね「意中の人を踊りながら椿になるまで追いかけて・・老いたい」との願を詠ったように思えるからです。まさか盆踊り句と解釈する人は誰もいないでしょう。
 そこに俳句結社に所属せず、虚と超現実の美 ダンスポエジーを詠い上げる孤高の女流歌人の強い個性を感じます。

 鷹女の詠んだ下記の椿句は  

   落椿投げて暖炉の火の上に/虚子 を意識したのでしょうか?
   ・暖炉昏し壷の椿を投げ入れよ (他椿句20数句あり) 
     ・笹鳴きにあいたき人のあるにはある  
      ・詩にやせて2月渚をゆくはわたし
     ・白露や死んでいく日も帯締めて

      ・踊るなり月に髑髏の影を曳き 
       ・この樹登らば鬼女になるべし夕紅葉 
     


 
  
  過去を振り返えれば、日本のDance Poetry ダンス句(D句)は昭和初期に既に芽生えていたのです。その萌芽は、一時ダンスが風営法の規制対象であったこともあり、叙情を邪道とする業俳家によって封印されたのです。
 後の世の現代俳句や現代詩の世界でも、ダンス詠の業俳家や詩人は殆ど輩出されず皆無となったことは、誠に不幸な結果と言わざるを得ません。



    西東三鬼

三橋鷹女